オケなしのOKナッシー

あなたの悩みをオケなしが解決するブログ

「オケなしに興味ないなら見る価値のないブログ」 Facebookの投稿より

机上の空論という言葉があるように、
論理を論理のままにしてはいけないのだろう。

成功の法則をいくら勉強しても成功できないように、行動しないと意味がないということである。
思考することによって判断できることもある。
自分を見つめ直したり、冷静に物事を考えれたり。

しかし、それ以上に行動あるのみ。
ぼくがやれてないことでもある。

行動することによって、理解度は深まると思う。
時には大きな火傷をすることもあるが、
そこからなにを学び、改善するのかは
人の生き方次第である。

ぼくは考えることが好きである。しかし、理系ではないので分析する才能はないと思う。難しい話は全く理解できない。ほんとうはあまり深く考えずに飛び込んでみるほうがいいのかもしれない。ただ無心に深く考えずに、楽器も打ち込みもせずにメロディを作れたのは、ぼくの無頓着さのおかげである。最近では、英語だけの曲をGoogle翻訳などを駆使して制作しているが、"とりあえずやってみよう。和訳は間違ってもいい"という軽い気持ちでやっている。別にだれかに提供するための曲ではない。スキルアップのためにやっている。やっている中で英語も少しは上達するかもしれない。

スキルアップのために筋トレしたり、
発声したりするのも大事だとは思う。
しかし、スキルアップをしながら
SNSで発信するというのも有りだと思っている。
YouTubeの動画を編集している中で、いい部分と悪い部分を分析している。

「このトーク、面白いな」
「滑舌悪いのが気にかかる」
「しゃべりのテンポが悪い」
「しゃべりすぎているのが気にかかる」あるいは「フリトークもっとすればよかった」

など"話のスキル"を意識し改善できる。
もっとも苦手な"オチをつける"や"上手い話しは捨てる"。できないことを伸ばすのは、無理だから切り捨てる。別に芸人になるわけではないんだから、必要ない。

視聴回数は全く伸びないが、やっている中でひとつだけでもいいから伸びてほしいなとは思っている。
クオリティは低く評価されなくても、YouTubeがたまたま検索されれば伸びるということも稀にある。

ぼてぼてのヒットでもいい。
バットをふらないと結果は絶対出ない。

その言葉を忘れずにバットをふらないと。

FSM時代、"いちばん音痴の自分"はオーディションに受けた。そのオーディションに落ちたが、審査員に気に入られ、"YouTubeの動画配信が決まった"。
その動画がたまたまヒットし、オケなしが誕生した。
ぼくだけの力ではない。その動画に関わった人達の力である。だからそんな奇跡にぼくは感謝している。

でも、その奇跡はぼくがバットを振ったからだ。
FSMに入学して挫折をたくさん味わい、自分の無力さを呪った。なんとしても結果を残さないと親に顔向けできないという思いもあり、当時のぼくは尖っていたと思う。馴れ合いはしたくないと思っていた。
そんな中でYouTubeがヒットし、ぼくはオケなしとして活動することになる。

見られることの苦しさも知った。当時、SNSで何度か炎上した。ぼくの慢心も気づかぬうちにあったのかもしれない。そのおおちゃくが原因なのもたしかにある。しかし、人気があるやつを妬み攻撃する人間の邪悪さを肌で感じた。そんな人達に悪気がないというのも人間の邪悪さだと思う。悪気がないから、問題は大きい。平気で傷つけるのだ。ぼくには妬みという概念があまりないようなので、その人達を理解できない。プライドが高く自分を傷つけても、人を傷つけようとはぼくは思わない。

でも、今はその人達の存在も必要だなと感じている。
昔の自分にあって、現在の自分にはないもの。
それは、アンチである。

問題をどう捉えるかは
自分自身が決める。
諸行無常というように
常に物事は移ろう。
ぼくにとっての問題は変わってしまった。

必要なかったアンチが必要になっている。

アンチというのは、人気のバロメーターである。
その言葉を忘れないようにしたいものだ。