『1への挑戦』0から1を数えたい 『オケなし』に勝算はあるかい?
どうもこんちゃーす。夢はあるけど金はないオケなしです。夢を発行する代わりに借金を発行してしまいました。只今、100万を超える債務者です。
それはおいといて、あなたには夢がありますか?
夢といえるほど大それたモノではないかもしれませんが、趣味ぐらいはあるはずだ。できたら、それだけで生活できたらいうことなしではないか。
そんな要望はだれにでもあるはずだ。
では、なぜそれをみんな選ばないのか?
別に批判をしたいわけではない。それを選ぶのが真っ当であり手堅いわけである。大きな冒険をするより安全な道を選ぶほうが賢いし安全だ。
コロナで職を2ヶ月半ぐらい失ったぼくなら、その安全がどれだけ尊いか分かる。だが、その準備が終わればまた大きな冒険にでかけるだろう。それがぼくという人間の本質であり絶対である。
今はそうだな。大きな冒険をするためのレベル上げをする段階である。メタル狩りをしている最中である。これがかなり時間がかかる。メタルはすぐ逃げるし、レベル上げに没頭してなかなかストーリーが進まない。
それはドラクエの話である。話を戻そう。
なぜ、安全な道を選ぶのか?
安全な道は歩道が整備され、おまけに手すりまで付いている。歩くのがめんどくさい人や足腰が悪い人のためにロープウェイまで付いている。だれにでもいい景色が特典としてついてくるわけだ。つまり、だれかが確立した道路があるから、安全に進めるわけだ。
だが一部のバカと天才は道路を開拓することを選ぶ
ぼくは天才ではなく、間違いなくバカのほうだが、バカでも成功すれば、天才を凌駕できるかもしれないな。それは、凡人のプライドだろうが。
それはおいといて、道路を開拓するヤツがいるわけだ。道路を開拓する人がいるから安全な道を見つけることができたわけで、そういう常識はずれの人間が新しい常識を構築していっているわけだ。
それではその開拓者に勝算があったのだろうか?
勝算があるかないかはあくまで主観であるわけだが、どんなに小さい勝算であろうが、なければだれもチャレンジしないのではないのか?あくまで、チャレンジする側の感覚であって、周りの人からしたら無謀でしかないのだが。だから、そんな人を周りはバカにしたり見下したりする。「そんなのできるわけないよ」と。
そんな人に一言言ってやる。
「バカにされるのは構わんが人の人生に口出すな」と。
ここでいう勝算とは?
たとえば、「資質」とか「才能」ってことになるだろうな。
ユーチューバーの才能があるなら、YouTubeで稼げる確立は高いだろう。ぼくには、ユーチューバーとしての才能はない。動画編集どころかパソコンもろくに使いこなせない。そして顧客がなにを求めているかというマーケティング戦略を全くねれない。マーケティングとはなにかを説明できても、自分にとってのお客様がどうしたら喜ぶかがまだ見えていないのだ。
だからぼくは、YouTubeは手段として捉えている。自分の活動や存在を伝えるツール・「名刺」である。
「ぼく、YouTubeやってるんですよ」
この言葉がなかなか使える。必ずといっていいほど興味を持ってもらえる。好感度が上がるわけではないが、少なくとも認知されやすい。
「YouTubeをやっているユーチューバーの本多さん」として、実際かなり認知されている。ぼくは別にユーチューバーをやりたいわけではないんだけど。
"1"を刻むのがいちばん大変
「ユーチューバーの本多さん」でいれるのは、たまたまヒットした作品があるからである。ただ運が良かっただけともいえるが、その偶発的な「1」回目の奇跡さえ並々ならぬ苦労があったわけだ。
その"1"を数えるためには、並々ならぬ苦労や挫折やイタミがあり、そのイタミを乗り越えたからこその奇跡である。もしぼくが諦めることを選び、母校の専門学校へ行かなければ、ぼくは「オケなし」と出会うことはなかっただろう。
母校にはほんとお世話になった。高い授業料を払っているから当然だが(結局、親に授業料を払ってもらった)、ぼくという人間に協力してくれた方々がたくさんいた。
恩師の先生はもちろんのこと、イベントに携わった先生方、笑顔が素敵な受付嬢(ナンパばかりしてごめんなさい)、ほんといろいろな人に迷惑をかけました。ほんと「ありがとう」だけじゃ足りないんだけど、ありがとうございます。
先生だけではありません。クラスメイトにも恵まれていました。
それなのに生意気言ったり、調子のったり、すぐ女の子に告白したり、振られたり、いろいろ迷惑かけてすみません。でも楽しかったぜ。
いつかまたどこかで、語ろうぜ。
過去をかいこうしたところで、なにも変わるわけないが、未来は変えれるかもしれない。未来の自分の行動が変わることで。
頭の中にある数々の「IF」は後ろ向きなものが多いが、「けっきょく今がいちばんいいんだ」と思える。それだけ自分なりには精一杯生きているからな。
ぼくに勝算はあったか?
まず、専門学校に行く前のぼくの苦悩をお伝えしよう。とんでもない音痴であることが最大のネックだった。その音痴具合は「シンガーの才能がない」ではなく、「シンガーになるのが不可能」なレベルであった。なにせ、音感が0でありそれを鍛える方法も全く知らなかった。ただがむしゃらにひたすら歌い続けた成果は、多少の変化をぼくに与えた。多少なりともマシになっており、当時のぼくにとってはそれが「わずかな希望」であった。
その変化は「メロディさえ聞き取れない」レベルから「メロディは聞き取れるが音痴」というレベルまでのステップアップを果たした。効率はすこぶる悪いが無駄な足掻きではなかったらしい。事実、その変化が一寸の光であった。
高校を中退し、福岡市内の通信制高校に通っていた当時、進路に対しての不安を抱えていた。「福大」でも行くかと勉強を始めたぼくだったが、「福大」へ行ける学力はおろか普通に大学へ行けるか分からないというレベルであった。「音楽」と「小説」しか興味がないぼくにはやはり、「国語」が人並みにできるぐらいで進学は「不可能」だと理性では気づいていた。なにより、そこまでのヤル気がぼくにはなかった。理性では不可能を超えれないのだ。
そんな中、ぼくが通っている通信制高校に「福岡スクールオブミュージック&ダンス専門学校」のスタッフがやってきた。ぼくは、なにか運命みたいなのを感じ、入学体験に参加した。
そこで、ぼくのメロディを体験授業の講師に聞かせたところ、「音痴だけど、メロディの雰囲気がいい」と褒められた。それがすごく嬉しかった。ぼくが聞いて欲しかったのは、「歌」ではなく「メロディ」だったからだ。メロディなら自信があった。そこがぼくの唯一の勝算だったから。
そして提出した曲は僕自身あまり歌わないコアな曲にした。YouTubeにも出したことがない曲である。
あえて「B面の曲」を選ぶことで、自分のスキルを試したかったのだ。
こういった選び方は普通はしないだろう。勝負曲を選ぶのが普通である。しかし、ぼくはそれをしなかった。勝負曲だったら、100%認められるから面白くないと思ったからだ。そこで、自分の才能を試すというね。完全にナルシストである。
この出来事をきっかけでその専門学校に入学し、恩師の先生と出会い「オケなし」を始める。
オケなしに勝算はあるか?
どうだろうか。あるかな。ぼくは、日本では難しいのではないかと感じている。アメリカなら流行るかもね。だから、今英語の曲を作成しているが、どうだろうか。
でもやはり、日本で活躍したいと思う。だって英語喋れないし。アメリカ犯罪多いし。
オケなしの勝算があるとするなら、
不可能を越えることだけだな。だから、また、もう一回だけそれを超えてやる。そっちのほうがおもろいやろ。
ぼくは、また1を数えるために
生きていく。
それだけしかできないからな。