「自己啓発」に意味を求めるのは、甘えたいからじゃないか?
どうもこんちゃーす。だれよりも努力が苦手なオケなしです。
あなたは自己啓発書を読んだりしますか?
ぼくはかなり読んでいます。
そこで、思うことがあるわけです。
自己啓発書を読んで変われたのか?ってね。
たぶん、自己啓発書を読んでいる人なら、だれしも思うことである。
「こんなにも読んだのに変われないじゃないか?」
って。
そうやって、いつしか自己啓発書を憎むようになる。
ぼくは少なくとも、それは間違っていると思う。そういった気持ちは多少理解できるが、本によって救われた部分もあるはずだ。
ぼくは少なくとも、本の力によって「心の安定」を手に入れた。それはぼくにとって「成功」よりも価値がある。
「成功」というのは、ブランドだ。飾りにすぎない。しかし、「心の安定」とは「なくしてはならない宝物」である。それを守ることこそが、「人生の本分」であることは忘れてはならない。
かくいうぼくは、わがままで物欲にあふれている。
「あれも欲しい、これも欲しい」と常に思っている。
しかし、"大切なものがなんなのか"ということは忘れてはならない。
大切なものはそう多くはない。
「心の安定」やあたたかさぐらいだ。
それだけでいいのだ。
自己啓発書が夢を叶えてくれるわけじゃない
ぼくも勘違いしていた部分もある。
「読んでいたら、いつか叶うんじゃないかって。
『思考は現実化する』や『ユダヤ人大富豪の教え』を読んだんだ。大丈夫だって」
そんな願望が1年経って、2年経って、
やがて"あきらめムード"に変わる。
「話が違うじゃないか?」って。
ぼくもそれを少しは感じていた。その声に、耳を傾けなかっただけで。
自分なりに努力はしたさ。だけど、なかなか変わってくれない。それでも、あきらめきれなかった。
ぼくは夢にすがる落伍者。それだとしても。
「夢をかなえるゾウ」という自己啓発的な内容の小説がある。その小説の中で、ぼくがいちばん感動した言葉は、
「今までの教えはすべて、本棚においてある本の中にあった教えだって」
その教えを実践しなかったから、なんにも変わらなかったのだ。
それは、ぼくに言われている言葉だと感じた。
実践しなきゃなんの意味もない。
「本を読んでいる時間や考える時間では、ただ寝ていることと一緒」
ガネーシャの主人公にかけた言葉がぼくには突き刺さった。
現実はさらに遠い
小説の中でも、苦悩は描かれている。
「夢をかなえるゾウ」でもそうである。
1の主人公は、建築士になるという夢を叶えたが、
2の主人公はお笑い芸人にはなれなかった。しかし、
構成作家として活躍することになる。
つまり、努力したことが無駄にならないという世界に生まれた住人だからである。あくまで、フィクションだから、成功はつかみとれるのだ。
フィクションと成功者の言葉は、
我々と違う。
なぜなら、我々は「落伍者」なのだから。
成功していないからだ。
しかし、それを悲観するわけにはいかない。
そこに意味などないのだから。
「自己啓発」に意味を求めるのは、
甘えたいからじゃないか?
自己啓発とは、「夢を叶える手段にはなりえない」。あくまで、「自分との対話」である。
"自分の生き方を見つめなおす機会"であり、"いろいろな人生の参考書"だ。
つまり、自己啓発書とは「生きるためのヒント」である。
そんな自己啓発書に「夢」を見るのは甘えたいからじゃないか?
"叶わないかもしれない"
"無駄かもしれない"
"きっとつらいだろう"
そんな恐怖から、逃げているだけなのではないか。
だから、それから逃げたいためだけに、
「自己啓発書」を読むのはやめよう。
「自分との対話をするため」に読むことをおすすめする。
そしてぼくは、、、
上手くならないかもしれないが、発声を続ける。
成功しないかもしれないが、夢をあきらめない。
いつでもどんなときでも、自分なりのチャレンジを続ける。
ことを誓おう。
とんとん。
心(ここ)にな。